こじらせ母の育児と育自

高齢出産のち、2歳差姉弟の育児。

3月11日

東日本大震災から5年。
あの日、私は被害の大きかった地域からは離れた場所に住んでいて、いつもより随分長く大きな地震に何とも言えない不安を感じながら速報を見ようとテレビをつけた。震源地は東北。とてつもない規模の地震。そして津波。その様子を伝える映像を見た時、重苦しい感情に飲み込まれ言葉を失った。

日本全土が、そして日本の全ての人の心も文字通り大きく揺さぶられた地震。もしも私が被災したら。大切な人を亡くしたら。自分の命が奪われたら。想像しては自然の力の前での人の無力さに打ちひしがれた。
でも今、あの日はいなかった娘がここにいて、絶対に守るし、生きてみせると思うようになった。もちろん、こんな大災害がもう二度と起こらないことが一番だけど。

どうか被災した方がこの先はもう悲しまずに暮らせますように。そして亡くなった方が安らかに眠れますように。

寝ない子

「新生児期の赤ちゃんは1日の大半を寝て過ごします」とか「赤ちゃんがお昼寝している時にママも一緒にお昼寝しましょう」とか。育児本やネットの情報はすべての子がそうであるかのように言う。けれど、少なくとも私にとってはそんなものは都市伝説でしかなかった。
娘はとにかく寝ない子だった。

背中スイッチ標準装備。オプションに寝てもきっちり30分で起きる高性能タイマー搭載のハイスペック。
新生児期の睡眠時間は16〜18時間。20時間近く寝る子もいるとも言われている中、娘は10時間程度だった。布団での睡眠時間だともっと短い。ゆらゆら横揺れ振り子より小刻みな縦揺れスクワットがお気に入りで、あっという間に膝は関節痛、グラグラの首を支え続ける左手は腱鞘炎になった。
寝かし付けているうちに次の授乳時間が来るから休む間なんてない。泣く、おっぱい、泣く、抱っこ、泣く…のサイクルを何度も繰り返し、布団で寝てくれるのは日に一度あるかないか。一緒にお昼寝なんて娘が生まれてから数える程度しかしたことがなかった。

「退院したばかりで環境が変わって落ち着かないだけ。すぐに慣れるよね」と産後ハイで無我夢中の1週間。「来週には落ち着くよね」と騙し騙しで乗り切って2週間。「この子全然寝ない…」という事実にとうとう目を瞑れなくなってしまって3週間。里帰りしなかったので育児だけじゃなく、家事もこなさなければならない。そこへ連日連夜の寝不足スクワットは育児というより何かの修行をしているようだった。

休日は夫がいてくれるので何とかなったけど、平日はひとり。生後1ヶ月ちょうどの日、ついに限界突破した。私は泣きながら実家の母に電話で助けを求めた。その日はたまたま母の誕生日だったのだけど、「おめでとう」より先に出たのは「もう無理…」という言葉だった。

こじらせ母

「あと10歳若かったら…」と娘を育てている中で時々思ってしまうことがある。大体疲れている時だけど、すぐに疲れるのに回復がとにかく遅いのはやっぱり年齢によるところが大きいと思う。

妊娠した時、30代後半という年齢に不安がなかったわけではない。でも体力や健康には自信があってそれが不安を上回っていた。今となってはそんなの何の根拠もないただの過信。高齢であるというだけで妊娠も出産もハイリスクだと言われるのは間違いではないのだと身を以て知った。

元々子宮筋腫持ちで妊娠4ヶ月頃から頻繁にお腹が張るようになった。それが5ヶ月で炎症(子宮筋腫の変性)を起こし、切迫早産になりかけ入院。入院中は点滴に内服、退院後は臨月まで週1で注射と薬漬けの毎日だった。お産は陣痛が弱いまま進まず促進剤使用。
そんな決して快適とは言えないお腹の中で娘は頑張ってくれた。きっと頑張り過ぎてしまったのだろう。生まれてきた時羊水を吐き出せず上手く泣けなかった。お産の過程で何かの菌に感染したらしく肺炎を起こしていたので、カンガルーケアどころか顔もろくに見られないままNICUに入院になってしまった。

私は自分を責めた。妊娠中もお産も娘に大変な思いをさせたのに、私は娘を元気に産んであげられなかった。入院中は泣いてもすぐにおっぱいをあげたり抱っこもしてあげられない。かわいそうなことをしていると。
だから12日間の入院を経て退院した時、夫とふたりで「ここまでずっと頑張ってきたんだからこれから沢山抱っこして甘えさせてあげよう」と決めた。

けれど、この決意が自分の首を締めることになった。産後の私は娘をちゃんと産んであげられなかったこと、思い描いていた出産、産後の生活ができなかったことの後悔とショックで自分が思う以上にがんじがらめだった。娘が寝ずに泣き続けるのはちゃんと産んであげられず、入院中に寂しい思いをさせたからだとこじつけるようになった。私を母親だと思っていないのかもしれないと落ち込みもした。
そして思った。「あと10歳若かったら」と。ちゃんと産んであげられたかもしれないし、娘はこんな風にならなかったかもしれないと。

この勝手な思い込みのせいで娘に純粋な愛情や愛着を持てるまでに時間がかかってしまった。娘が育てにくい子なら、私は母親をこじらせた母だった。

うちの娘は育てにくい

というストレートなブログタイトルで敬遠する人もいるかもしれない。
けれど、私は実際に人から言われた。娘は“育てにくい子”だと。そして、そう言われたことで私は救われた。

とにかく寝ない。何かというと大泣きして泣き入りひきつけを起こす。すぐに癇癪を起こして金切り声を出す。手足をいつもバタつかせ、授乳中や寝入り端まで暴れる。そんな娘に新生児の頃から私は漠然と“育てにくさ”を感じていた。その度に自分の娘をそんな風に思う自分が母親失格なのだと自己嫌悪と情けなさで泣いた。
そんな話を人にすると言われることは大体同じだった。赤ちゃんは泣くもの。声を出すのは元気な証拠。今が一番大変。じきに楽になる。他のお母さんもみんな頑張ってる。色々な人にそう言われる度、私の我慢が足りないんだ、他のお母さんはこの程度で音を上げないんだ、大変なのは今だけなんだと言い聞かせ、必死に娘を育ててきた。

けれど月齢を重ねて多少落ち着いた部分もあるものの、成長することで手が掛かることはむしろ増えた。何より、娘のような子に会ったことがなかったし、見かけたこともなかった。
「私の育て方が悪いんだ」と、鬱屈した気持ちで子育てをしていたある日、ひとりの保健師さんに言われた。「この子は育てにくい子かもしれないね。この子の個性で育て方のせいじゃない。お母さんは頑張ってるよ」と。
母親が自分の子を“育てにくい”と思ってはいけないと思っていた。それに、うちの子が“育てにくい”はずがないと思いたかった。そんなこだわりや縛りから解放された言葉だった。

以来、育児本のような笑顔いっぱいのバラ色育児はうちではできないと色々吹っ切れたし、諦められた。今、娘は7ヶ月。まだ時々ささやかな期待をしてしまい壁にぶつかることもあるけど、母も子も少しずつ成長している。

このブログで育児本には載っていない娘の育児のことを少しずつ書いてみようと思う。