春の憂鬱
それは転勤の辞令。
別れだ新しい出会いだと、否応なしにそわそわさせられること。
梅が咲いた、桜が咲いたと風情なくお祭り騒ぎするのも白けてしまう。
目下、一番の憂鬱は現代の風物詩の如く流れる保育園のニュースだ。
保育園に落ちた人を今の日本の母親代表のように取り上げては、これからの日本は共働きが当たり前。女性は子どもを産んでもバリバリ働くのが当たり前だと焚きつける。
昔は女は家と散々抑えつけてきたくせに。随分都合がいいことを仰る。
日本は国を挙げて女性の価値観を画一化しようとしているのか。道理で女性が生きづらいわけだ。
どう生きるかはその女性個人の事情や意志次第のはずなのに。
結果、一部間違った解釈をしたお母さんたちが嬉々としてこんなことを言う。
「保育園入れた方が楽だよ」
「トイトレは保育園がやってくれるよ」
「なんで働かないの?」
私は子どもが自分で食事を取り、トイレで用を足し、服を着替えられるようになるくらいまでは自分の手元で育てたいし、どんなに大きくなっても子どもの見送りと出迎えはしたいと思っている。
そういう私の価値観は古いと蔑ろにされているような気になってしまう。
とはいえ、そう思えてしまうのは、私が専業主婦でいることに迷いや不安があるからだ。
娘を連れて公園に行くと誰もいない。
元々子どもが少ない土地ではあるけど、皆共働きでいないのだと気付いたのはしばらくしてからだった。
私が子どもの頃、自分の母も友だちのお母さんも皆専業主婦だった。社宅住まいだったので、外に出れば誰かしらいて遊び相手には困らなかったし、見守りがてら母親たちが井戸端会議をしていたものだった。
でも今、私は娘の遊び相手も育児の戦友も努力しないと見つけられない。
働くお母さんたちと時代から取り残されたような心細さを感じる。
気持ちが揺れる。
私も働けば。
娘は保育園で友だちや先生と遊べるし、私にも気の合う同僚の1人2人できるかもしれない。
それに収入も増えて、少しは自分の自由になるお金もあって。仕事で評価されることもあるかもしれない。
と、考えたところでナンセンスだと思い留まる。
働く理由が生活のためでも、自分のキャリアのためでも、子どものためでもないなんて。
周りが働いているから私も働くと右に倣えで仕事をするような人間は会社には要らないだろうし、その程度で貴重な保育園の枠を埋めるのは違うと思う。
今はまだ働かない。
そう決めたのは自分なんだから、周りに流されたり、引け目に思ったりせずに堂々としなくては。
働いていようと働いていまいと、母が一本筋が通っていれば子どもは信頼してついてきてくれると思うから。