こじらせ母の育児と育自

高齢出産のち、2歳差姉弟の育児。

思い出という抜け殻

先日娘がめでたく1歳の誕生日を迎えた。

誕生日前から育児日記を読み返してはうるうる。生まれてからの写真を見返してはうるうる。誕生日前日に参加した支援センターの誕生日会で、ハッピーバースデーのフルート演奏を聴いていたら、とうとう感情の昂りがフライングでクライマックスを迎えてしまった。
娘の成長はもちろん嬉しい。でも1人では何もできない小さな赤ちゃんでいる時間は短かく、これから時間をかけて少しずつ親の手を離れていく。育児が大変で早く大きくなってほしいと思っていたくせに、いざ0歳最後の日になったら、もう見られない表情や仕草を思って寂しかった。

そんなセンチメンタル母ちゃんは、きっとこの先も折に触れて思い出すだろう。誕生日当日は終始バタバタで感慨に耽る間もなかったこと。朝イチの予防接種。アリスでのイヤイヤ写真撮影。よりによってこの日急遽私が歯医者に行ったこと。一升餅を背負ってひっくり返ったこと。不器用だからかわいい飾り付けも凝った料理もなかったけど、家族3人でお祝いできたことが本当に嬉しかったことを。

今はまだ何かあっても何もなくても抱っこをねだってまとわりついてくる1歳の娘。そのうち親より友だちとの時間を選び、いつかは親より大切な誰かとの人生を選ぶ日が来る。

成長するその度、抜け殻みたいに残るのが思い出なのかもしれない。沢山の思い出が娘を育てていく。だから特別な日じゃなくても何でもない1日こそ大切に過ごしたい。

そんな風に思った1歳最初の日。

ぶるぶる攻撃はいやいや期の前兆?

娘にはちょっと不思議な行動や癖がいくつかある。それには週替わりや月替わりで娘がハマるブームのようなものがある。最近は指差しブームなこともあり、人差し指を立てるのがお気に入りなようで、左右の人差し指同士をくっつけては悦に入っている。あと、生まれてからずっと寝る時は指しゃぶりする子だったけど、最近は抱っこで寝る時は指しゃぶりしながら私の襟ぐりを掴むようにもなった。見ていて面白いし可愛い。
でも、あまり突飛な行動だと障害や病気を心配してしまうことがある。
ちょっと前にあったのが顔を真っ赤にして両拳を握り、わなわなと身体を震わせる動きだった。時間にして2、3秒位で、それこそうんちを気張っているような力みっぷりだった。1日5、6回あったかと思えば、次の日は1回もなかったりと日によってまちまちで、うんちのタイミングとも明らかに違う。
てんかんを疑ったけど、それにしては短時間だし、前後の意識もはっきりしているし、顔色も良い。
こうなるとやっぱり検索してしまうのが、情報社会に生きる新米母ちゃんの性。
あった。これだ。ぶるぶる攻撃!

シャダリング・アタック(身震い発作)

このような発作は英語で「シャダリング・アタック」「身震い発作」と呼ばれているものです。
身震い発作というのは、乳児期にときどき認められる症状で、発作的に体を硬直させ、頭や背を軽く前屈し、肘や膝の関節を少し曲げた姿勢で腕や足を細かくふるわせます。発作は10秒前後で終わります。一日に何回も発作をくり返すこともあります。
身震い発作は、「背中に冷水が入って、ヒャッと身を縮めるときのような動作」「冷水中に入ったときのような動作」「排便時にきばるような様子」などと表現されています。普段の動作中に突然出現し、もとの動作を停止し、一点凝視し、歯をくいしばり、四肢に力を入れ、身体をこわばらせ、息むような動きもみられ、顔面頸部、体幹、および四肢の全般的、瞬間的な筋肉の収縮で、身体の一部の動作ではなく、「イーツ」「キーツ」といった発声を伴うこともあるようです。顔色は紅潮することがあっても蒼白になったり、チアノーゼは伴わないようです。
発作の発現には、興奮、怒り、恐れ、不満のような情動的要因が関係しているといわれます。
症状がけいれんに似ていますので、脳波や発作時ビデオを調べた研究の結果も報告されていますが,脳波には異常所見はないとのことです。このような身震い発作は,生後6ヵ月以後の、赤ちゃん時代の後半から1~2年頃までの間に現れる場合が多いようです。
多くのお子さんが年齢とともに発作の回数が減って自然に治ってしまうようです。したがって、特別な治療は不要です。
もう一つ、「イリタブル・ベビー(いらいら・ベビー)症候群」と呼ばれるものは、体を硬くするという点が身震い発作に似ています。
いずれも、昔の言い方をすれば、「かんが強い、疳の虫」ということになります。対応は、この症状のために親が神経質になって悪循環に陥らないように、極力落ち着いて、優しく、ゆったり抱いてやったり、さすってやったりして落ち着かせましょう。

なるほど。遊んでいて思うようにおもちゃを扱えない時にぶるぶる。食事中苦手なものを食べたくない時にぶるぶる。歯磨き、顔拭きでぶるぶる。
ちなみに娘のぶるぶる攻撃のピークは1週間くらいで、その後はフェードアウトして今はピタリとおさまった。その代わり今は首を横にぶんぶん振る。誰も教えていなくてもこういうことができるのは本能なのか?そのくせ縦には振らないときた。全く一筋縄ではいかない。

この前スーパーで床に転がって泣きじゃくるいやいや期らしき子と必死の説得を試みるお母さんを見かけた。「ああ、あれはそう遠くない将来の私たちの姿だろうなぁ…」と身につまされた。
ベビーカーの安全バーに豪快な大開脚で両足を投げ出している娘に目をやると、ニヤニヤ笑っていた。無邪気な宇宙語で「私もやるよ」とでも言っているようだった。

 

※「もしかしたらうちの子も?」と思った方は“shuddering attack”で検索すると動画がありましたので、参考までに見てみてくださいね。もちろんてんかんの発作の痙攣なのか身震い発作なのかはきちんと病院で脳波を調べてもらわないとわかりません。娘は今回はすぐに落ち着いたので自己判断で病院には行っていませんが、もしまた同じような症状が出たら受診を考えています。

小児鍼のピエロ先生

小児鍼に行く前は、娘と娘の中の疳の虫は大暴れしていた。
日中はほぼ興奮状態。思うようにならないことがあれば金切り声で叫び、手にしたおもちゃや食べ物を投げた。私や夫を噛んだり、抓ったりした。そして毎晩2時、3時に起き出しては明け方までハイテンションで遊ぶ。娘の個性だと言い聞かせて相手をしてきたけど、やっぱりイライラしたし疲れた。そして、何か取り憑いたかのようなはっちゃけぶりに恐怖に近い不安を覚えることもあった。神頼みに近いことに目が行くようになり、宇津救命丸や樋屋奇応丸、虫封じのお寺について調べるようになっていた。その時たまたま小児鍼を知った。
「赤ちゃんに鍼を打つの?」と思う人もいるだろう。私も最初は「そんなことさせられない」と思った。でも実際は何のことはない、専用の鍼と手で身体を撫でるタッチセラピーのようなものだ。

 

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関西の方だとわりとポピュラーらしい。近場にないかと探したら、まさかの徒歩圏内にあったのが今通っている鍼灸院だった。
東洋医学は合う合わないがあるし、即効性は期待できないと聞いていたから、「歩いていけるし、効果があったらめっけもん」くらいの軽い気持ちで通い初めた。
それが、3回目には嘘みたいに落ち着いてきた。いや、嘘ではなく本当に落ち着いてきた。

先生は娘との距離感を取るのが抜群に上手かった。「目が合わない(くらい癇の強い)子は久しぶりだなぁ。なかなか手強いお嬢さんだ」と言われた初日。鍼灸院に入るや大泣きし、先生の視線を避けるように顔を背けていた娘は、30分後には泣き止んで大人しく施術されていたのだから。
先生曰く、「目を合わせようとすると威圧的な感じを受ける子もいる」のだとか。よく授乳中に目が合わないと悩むお母さんがいるけど、それは障害云々よりもそういう子の可能性があるそうだ。そういう子には向こうからこちらを見てくれるよう、近づいてくれるよう仕掛けるのがいいらしい。先生は一見すると娘に無関心な風を装いながら、たまに離れた所からべろべろばあしたり、おもちゃを振ったりして大道芸のピエロのようにおどけてみせた。このツンデレ作戦にまんまとはまった娘は徐々にピエロ先生を目で追い始めた。今ではピエロ先生を見ると笑顔になる。

先生自身、長男さんがかなり癇の強い子だったそうだ。その長男さんと長男さんの育児で疲れきっていた奥さんのために小児鍼を勉強したそうだ。相当大変だったらしく、手強いお嬢さんの娘を凌ぐ激しさだったと言うから想像もつかない。だから私が話す娘のはっちゃけ話にも「そうそう!大変ですよね〜!」と前のめりで共感してくれた。私の悩みや不安に初めて同じ立場で共感してくれたのが先生だった。そして娘が感じてきたであろう恐怖や不安、寂しさに初めて共感してくれたのもまた先生だったのだと思う。

通い始めてからもうすぐ4ヶ月。たまに癇癪と月齢相応の自己主張はあるけど、のべつ幕無しの奇声はなくなった。夜泣き、夜遊びはほとんどない。布団で昼寝ができるようになった。いつも投げていたぬいぐるみを優しく撫でるようになった。ご機嫌な時間と何より笑顔が格段に増えた。
とはいえ、これは全部娘自身の頑張りと成長に他ならない。鍼に行かなくても娘は成長できただろう。でも小児鍼とピエロ先生との出会いは成長のきっかけのひとつになったと私は思っている。
「もう来なくても大丈夫ですよ」と言われる日が寂しくも待ち遠しい。

救世主現る

4ヶ月健診の日を境に、娘はとても穏やかな育てやすい子になった。寝付きもよく、ご機嫌な時間が増え、奇声を上げたり、泣き叫ぶこともなくなった。やっと笑顔で娘の成長を見守れるようになった。私にとってあの保健師は恩人だ。

…というドラマのような急展開は残念ながらなかった。むしろ娘が起こす台風は月齢と共にパワーアップしていった。お座り前の5ヶ月、はいはい前の7ヶ月と荒れに荒れ、一段落するかと思いきや、8ヶ月になると今度は成長し過ぎた身体に頭がついていかないのか、昼間の癇癪に加えて夜泣きと夜遊びが始まった。
私はといえば。そんな娘に相変わらず翻弄されていたけど、「これは娘の個性なんだ」とまず受け止められるようになってはいた。そして周りの力を借りることに後ろめたさを感じなくなってもいた。こんな端から見れば当たり前で些細なことも、保健師の言葉がなければ私は何も気付けなかったし、何も変わらなかっただろう。だから、やっぱり私にとってあの保健師は恩人であることに変わりはない。

とはいえ、現状打破するのは自分次第。結局、最初の一歩を踏み出す勇気がなかなか出ず、私が重い腰を上げられたのは娘が6ヶ月になってからのことだった。
娘が私と夫以外の人に関わることと、私が娘と夫以外の人に関わることに慣れるために、ひたすら外に出て人と会うことにした。泣かれる不安からずっと足が向かなかった育児支援センターや地元の育児サークルに行ってみた。少しでも娘がリラックスできればとベビーマッサージ教室にも参加した。
色々な場所で色々な人と関わるうちに、娘が誰でも彼でも何でもかんでも泣くわけではないことがわかってきた。自分と同じ赤ちゃんや小さい子とそのお母さんには親近感からか泣くどころか自分から近寄っていく。逆に苦手なのは人見知りの娘とは真逆のフレンドリーな年配女性。町中で「あらあ〜かわいい!何ヶ月?」とベビーカーを覗き込む年配の女性。「慣れてるから大丈夫よ〜!」と娘が泣き叫んでも怯まないベテランの保育士、女医、看護師。夫の母、私の祖母もこのタイプ。顔を見るだけで大泣きする。
赤ちゃんは子ども慣れしている人には懐くものだと思っていた。でも、赤ちゃんにも人の好みや相性がある。実際、娘は全く子ども慣れしていない私の弟や強面の叔父を見ても泣かなかった。
家に2人でいたら絶対に気付かなかった。好きなもの、嫌いなもの、楽しいこと、苦手なこと。娘のことは何もかも知ったつもりでいたけど、外に出ると思わぬ発見がある。そういう発見を積み重ねていくことは、娘を育てる世界でひとつだけの育児書を作り上げていくようで、大変だけど面白かった。

そうこうしているうちに、早過ぎた人見知りと後追いは少しずつ落ち着いていった。ちょうど娘が成長するタイミングではあったのだろうけど、実は、この時期から通い始めた小児鍼の効果も大きかった。これまたあまり赤ちゃん受けしないであろう男の先生ながら、娘との相性が抜群に良くて今もお世話になっている。保健師が恩人なら、さしずめこの先生は私たち親子の救世主だった。

思いもよらぬ反響

23日の記事でこれまでにない沢山のアクセスと反響がありましたこと、お礼申し上げます。
ここまでとっつきにくい内容にも関わらず読んでくださったみなさん、本当にありがとうございました。沢山のスターやコメントに読者登録、とても嬉しく、また励みになりました。

さらに予想外のレスポンスがあり、恐縮しきりです。


こんな形で記事を紹介していただきました。

正直言うと、ブログを始めた時、同じ境遇の方と悩みを共有できたらいいなという期待はしていたのですが、想定していたのは女性でした。実際そのような方たちからの声を聞くことができたのは、とても心強かったです。
一方で、どちらかというと昔気質の私は「子育ては女性の仕事」という固定観念に縛られがちなので、男性からの反響があったことで、自分がどれだけ力んで子育てしているかに気付かされました。
おやこさん、ありがとうございました。

娘が育てにくいと言われるまでの回顧録はひとまず終わりです。今後は今現在の娘のことや育児について思うことを綴っていくつもりです。これまでと同じく、娘のご機嫌次第の更新、コメントの返信となりますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。

個別のコメントのお返事もこれからさせていただきますが、まずはお礼まで。

私はこの子の母親

私はまるで怪我をした小さな子どもが母親に泣きつくように、次から次へとこれまでの経緯や自分の思いを話した。保健師は黙って話を聞いてくれた。話し終えるとこんな話をしてくれた。

「赤ちゃんにはね、誰が育てても育てやすい子が2割、普通の子が6割、癇の強い育てにくい子が2割いるって言われてるの」

「こういう子は生命力が強いんだよ。物事の変化に敏感で好き嫌いがはっきりしているけど、しっかり自己主張できる芯が強い子になるよ!その分お母さんは大変なんだけどね」

目から鱗が落ちるようだった。それは多分何の根拠もない気休めや励ましだ。でも育児書にもなく、母親学級で教えてくれることもない苦しい育児生活が確かにあることをこの保健師はわかってくれていた。救われる思いだった。私は胸にずっとつかえていた思いを吐き出した。

「娘が育てにくい子だとしても、ちゃんと産んであげられてたら違ったのかなって思うんです」

と。
元気な産声を聞けず、産んですぐに抱っこもできなかった。お腹がぺったんこになったのに、赤ちゃんがいない。思い描いていた出産、産後の生活とはかけ離れた毎日。母親になった喜びより喪失感の方が強かった。母親になった実感がないまま育児が始まってしまった。
だからちゃんと産めていたら、親子のスタートをよーいどんで切れていたら、私は娘のことをしっかり受け止めてあげられたかもしれない。娘も穏やかでいられたかもしれない。

「そうか、そうなっちゃうか…。そりゃ元気に産んであげたかったよね。でもね、お母さん」

保健師は私の背中に手を当てて続けた。

「泣いたり、暴れたり自己主張が強いのはこの子の個性でお母さんのせいじゃない。お母さんは頑張ってるよ」

と。
ずっと自分のせいだと思っていた。もっとこうした方がいい、それはしない方がいいとアドバイスされる度に自分の育児や娘への愛情を否定された気がして自信を無くしていた。
入院中の娘に少しでも母乳を飲ませてあげたくて、アラームを鳴らして3時間毎に搾乳した。娘の写真を見ながら搾るとよく出た。骨盤はガクガクで歩くと会陰切開の傷が痛む産後の身体で、真夏の炎天下の中を毎日娘に会いに行った。娘といる時は不思議と眠気も痛みも暑さも感じなかった。
その時は出産という一大事でアドレナリンが出ているからできることなのだろうと思っていた。でも違った。私を動かしていたのはなけなしの母性だ。そしてあれは私なりの精一杯の愛情表現だった。

「お産大変だったけど、今こんなに元気じゃない!お母さんがちゃんと応えてくれるってわかってるから泣くんだよね。お母さんのこと大好きなんだよね」

娘の気持ちを代弁するように保健師は言った。人目も憚らず私は娘と一緒に泣いた。こんな母親でも大好きでいてくれるのかと思ったら娘が愛おしくてたまらなかった。背中をさすってくれる保健師の手が温かかった。
他の親子は皆帰ってしまって撤収作業も始まっていたけど、保健師は私たち親子が落ち着くまでそばにいてくれた。

この日、この保健師のおかげで初めて、そしてようやく「私はこの子の母親なんだ」と思えた。

育てにくい子と言われた日

ちょっとした物音への過剰反応、激しい人見知りに場所見知りと環境の変化に敏感な娘。それ以上に自分の変化や成長にもとても敏感だ。何か大きな成長がある前はことごとく荒れる。
首座り、寝返り、お座り、はいはいができるようになる前はぐずりや奇声が余計に酷くなった。でもそれらができるようになると、達成感や満足感からか憑き物が落ちたように穏やかになる。
それは台風の目の晴れ間のようなわずかな時間で、結局嵐の前の静けさに過ぎないけど、その時間こそ先に書いた2割の楽しさを感じる貴重な時間だった。

4ヶ月健診に行ったのは寝返りが打てるようになり、その台風の目の中にいる時だった。寝返りで運動量が増えたからか夜の寝かしつけに時間がかからなくなったし、夜中起きる頻度も減った。コンビニやスーパーでも無闇に泣かなくなり、「もしかして一番辛い時期は終わったのかも」と淡い期待を抱く程楽だった。

健診当日。待ち時間が長くなると確実にぐずると踏んで受付時間ギリギリに行った。待合室に入ると、娘と同じ月齢の赤ちゃんとお母さんたちがカーペットの上で思い思いに寛いでいた。穏やかな光景。和やかな雰囲気。
それなのに娘は泣き叫んだ。予想外だった。泣いたことがではなく、泣くのがこのタイミングということが。
部屋中の視線が私と娘に注がれた。耳をつんざくような娘の泣き声に驚いて泣き出す子もいた。私は居た堪れなくて、小声で「すみません」と言って頭を下げながら娘を宥めた。座ろうとすると泣くので、健診の説明をひとり立ったまま聞いた。

私は平静を装ってはいたけど、かなり動揺していた。受付でもらった番号札は36番。ということは、この日集まった赤ちゃんは多分40人前後。予防接種の時よりさらに沢山の赤ちゃん。しかも同じ月齢の。その中で泣いているのは娘だけというのはショックだった。台風の目の青空はやはり長くは続かなかった。

結局、娘は健診中ずっと泣いていた。診察の時には看護師が押さえつけるほど暴れて泣いた。何か気になることはないかと言われてすかさず、

「普段からこんな風に激しく泣いたり暴れたりするんですけど、何か障害があるんじゃないかと心配で…」

と尋ねた。小児科医は、

「元気があるだけ。障害なんてこんな月齢で気にするものじゃない」

と全く取り合ってくれなかった。
健診が一通り終わり、待合室に戻ると娘がまた泣き出した。泣き続ける娘。和やかな周りの親子。ぶっきらぼうな対応の小児科医。そして娘を泣き止ませられない自分。何もかもが嫌になった。ああ、もうだめだ。早く帰りたい。すっかり意気消沈し、抱っこ疲れもあって娘を惰性であやしていると、

「こんにちは。少しお話聞かせてくださいね」

と、ひとりの保健師が来た。健診の最後に聴き取りをすると言う。
話をしたところでどうせ「赤ちゃんは泣くのが仕事」的子育て常套句を並べ立てるだけでしょ。精神論、根性論はもう沢山。ここにいたら泣き止まないんだから早く帰らせてよ。
と、口には出さないけど、私は取り繕いもせず投げやりな態度を露わにした。保健師はそんな私を知ってか知らずか、

「ごめんなさいね、ずっと泣いてるのわかってたからもっと早く声を掛けてあげたかったんだけど、今日は職員が少なくて手が回らなくて」

と言い、そしてこう続けた。

「この子は育てにくい子かもしれないね」

と。
ストレートな表現に一瞬戸惑った。でも、ずっと私の中にあった違和感をはっきり言葉にしてくれたことは、むしろ上辺だけの優しさや偽善ではないと思えた。私は聞かれもしないのに、娘が生まれてからのことをその保健師に話した。